〈2〉
T町並みの形成

〜江戸時代の湯浅と町並みの発展〜
 湯浅では江戸開幕後に紀州藩主になった浅野幸長によって、慶長6年(1601)に検地が行われました。文政8年(1825)に湯浅村の義平が写した「慶長六年 御検地帳写 在田郡湯浅村」と題した冊子があります。関係部分を抄録すると右記のようになります。
 これによると「湯浅庄町」とあり、慶長年中には町場として認識されていました。屋敷地には、「濱北町」「中町南のはし東はら」「中町東はら」などの肩書きがあり、少なくとも「中町」と「北町」或いは「濱町」の町名が確認できます。検地帳によると、湯浅庄の屋敷地は9町2畝4歩、現在の坪数に換算すると31,763坪(約10ヘクタール)程度の広さで、相当規模の町場であったことがわかります。
 浅野氏支配下の湯浅では、深専寺の住職であった有伝によって広川の流路変更が行われました。旧広川河口は、「有伝上人行状記」(深専寺蔵)の記述によると、荒地が広がる寂寥とした所だったようです。有伝の広川改修計画は、広川の流路を北側に付け替えるというもので、工事は慶長6年に開始されました。この改修工事に伴って、島之内の周辺が整備され、石堤が築かれ、河口の堀の中島に水神として別所より弁財天が勧請されました。この工事の結果、耕作地が開拓され、水田が広がりました。 
 
  北浜町の通りに残る元醤油製造業の建物。
  左端開口部は“ツメバ”と呼ばれた作業場。

慶長六年八月十八日         検地 近藤平十郎
一田畑合百拾四町八反八畝弐拾弐歩之内
                         湯浅庄町分
 上々田五町六反六畝拾五歩
                 米百七石六斗三升五合
     (中略)
 屋敷九町二畝四歩      米百三拾五石三斗弐升
 桑七束             米七升
 茶拾五斤  外二□□□□ 米九升
  田方合  八拾六町弐畝弐拾七歩
        米合千三百八拾八石八斗三升六合
 上々畑壱町三畝弐拾七歩
                大豆拾七石六斗六升三合
     (中略)
  畑方合  弐拾八町五畝弐拾五歩
        大豆合弐百九拾壱石六斗九升五合
 弐口合 千六百八拾石五斗三升壱合
   蜜柑ノ木八本              (以下略)   

新屋敷の通りに残る近世後期(江戸時代)の町家。
 元和5年(1619)、浅野氏に代わって徳川頼宣が紀州藩主になりました。この頃の湯浅は、『紀伊続風土記』に「元和寛永の頃に至りて人家千戸に及び、商賈市街をなす」と記されているように、今から380年程前にはすでに相当の市街地に発展していました。その後、寛文元年(1661)になると、さらに新しい宅地開発が行われました。その様子は、「在田郡湯浅浜丑ノ新屋敷絵図」によって詳細が判明します(寛文元年は丑年)。絵図は、新屋敷の宅地割を描き、各宅地別に高(税)と所有者名を列挙しています。

                      「在田郡湯浅浜丑ノ新屋敷絵図」(北村家所蔵)                           
 新屋敷の宅地割は、浜町の西側の海岸に沿って、東西15間半、南北14間の方形ブロックを9つ南北に並べ、南端は4分の1にあたる南北3間半のブロックとし、各ブロックの間に1間1尺から2間幅の東西方向の道を通しています。東西道のうち、幅2間の一番広い道は蔵町の通りの延長に位置し、ブロックの北端は北町の通りの延長線上に乗っていますが、その他の道は、浜町以東の東西道の延長と一致せず、食い違いが生じています。新屋敷地の面積は6反6畝27歩(6尺5寸棹)、すなわち1坪が6尺5寸四方として2,007坪、約0.78ヘクタールになります。現在の新屋敷は、このときに確定した町域が現在に継承されているといえます。
新屋敷の宅地割概略図
 紀伊徳川氏※1の支配下にあった湯浅は、天保10年(1839)刊の『紀伊続風土記』に「湯浅・広両荘の地は海に瀕して漁戸多く、又海漕便近の地にして商賈の徒諸国に往来し、豪商富賈市街をなし、一郡の都会繁昌の地なり」と記されているように、漁業と海運・陸運を背景とした商業が繁栄しました。
 藩政の仕組みを見ると、郡に郡奉行・代官が置かれ、郡の下にいくつかの村をまとめて「組」が作られました。「大庄屋」が組をまとめ、「庄屋」が村をまとめました。有田郡下には、宮原、湯浅、藤並、石垣、山保田の5組が置かれ、元の湯浅荘は7ヵ村(湯浅・別所・青木・山田・吉川・栖原・田)と広荘16ヵ村、計23ヵ村が湯浅組に組み入れられました。

蔵町の通り。二階壁が漆喰の町家が残る。
 『紀伊続風土記』に「村中四分して東西南北四組とす」とあるように、湯浅は規模が大きかったため、湯浅村地区を東西南北に4つの組に分けて、各組ごとに庄屋が置かれ、全村の行政事務が分担されました。また、庄屋の下には各町ごとに3〜4人の行司が置かれました。
 幕末の資料になりますが、文久3年(1863)の『御用留』※2に、湯浅の各町の行司の人数が示されています。

 ※1)初代頼宣(1602〜1671)〜14代茂承(1844〜1906)。
     カッコ内は藩主の生没年。
 ※2)御用留とは、江戸時代の村役人が領主から下達された触書・
     廻状を控え記録した帳簿。
北  道   4人    南  道      3人
道  町   4人    御蔵町      4人
鍛冶町   4人    中  町      4人
浜  町   4人    新屋敷      4人
北  町   4人    中川原島之内  3人
 江戸時代、陸上交通の上では、紀州城下の和歌山より南下すると一日の行程で湯浅に着き、南より来ても鹿ヶ瀬峠などの難路を越えてくるため、湯浅は旅装を解くのに最も好適な位置にありました。熊野街道は藩によって整理され、街道の一里ごとに道標として一里塚、一里松が設置され(湯浅では郡民体育館横)、宿駅伝馬所※3(湯浅では道町北)も置かれ、官使の往来、官用の荷物書状の郵送の場として、人夫、馬匹が用意されました。有田の奉行所も湯浅に置かれ、有田地方の政治、経済の中心でありました。
 当時の戸数や人口については、享和元年(1801)に九鬼四郎兵衛が湯浅に宿泊したときの「先触書」※4の中に湯浅村の規模についての記述があります。これによると、湯浅村の石高は本田1532石8斗2升4合、新田24石2斗8合、家数は1,069軒、人数は5,622人を数えています。また、『紀伊続風土記』には、文政・天保年間(1818〜1843)の調査と思われる各町村の人口が収録されていて、当時の湯浅村の人口と紀州藩下における他の町村の人口を比較することができます。これに明治22年(1889)の和歌山県下における主要市街地の戸数と人口を考えあわせると、江戸末期の湯浅は周辺の町と比べて戸数や人口が多く、紀州藩内では和歌山をのぞくと新宮城下に匹敵する最大規模の人口を擁する都市であったことがわかります。

     ※3)伝馬所は藩内に38ヶ所設置され、有田郡では、宮原・湯浅・井関の3ヶ所にありました。
         宮原は蕪坂の南麓有田川の渡船場であり、井関は鹿ヶ瀬峠の北麓であり、湯浅はその
         中間における宿駅であったため三者中最も重要な位置にありました。したがって、宿屋
         不足の場合は旅館以外へも宿泊を割り当てたことがあります。

     ※4)先触書とは、室町、江戸時代、官人または貴人が道中する場合に、前もって沿道の宿駅に
        人夫の手配や馬の乗り換えなどを準備させた命令書。
広報トップページへ