〈3〉
町並みの形成

〜祭りと町並み〜

 江戸時代の陰暦9月(現在の10月)は顯国神社の祭礼で、湯浅の町はハレ(※1)の装いに包まれました。嘉永4年(1851)『紀伊国名所図会後編』巻4の「湯浅祭礼神輿渡御の図」によると、町境には祭礼提灯を吊った仮設の門が建てられ、両脇に「顯国大明神」と大書した幟(のぼり)が立てられ、御輿の渡御を中心に、獅子舞、母衣武者などの行列が練り歩いているのが描かれています。両側には瓦葺で2階建ての町並みがつづき、1階の庇や2階の軒下には幔幕が掛けられ、格子や窓がはずされ、渡御列を一目見ようという見物人が鈴なりになっているのが分かります。
   
  現在の中町通り。祭りの飾り付けをした町家。町ご
  とに鎧や母衣の飾り付けが行われるが、近年では
  飾りができる町家が少なくなった。この九郎助町は、
  神前に馬を集めて流鏑馬を始めたという田中九郎
  助にゆかりの町である。
     
「組馬」と呼ばれる一団。美しく飾り付けた馬に母衣武者と若衆2人と「矢取り」と呼ばれる子供武者を一組とし各区ごとに参加した。(昭和16年頃撮影)
 江戸時代には、このような渡御を迎える飾り付けが町家に行われ、近代になっても明治・大正・昭和戦前と秋祭りは盛大に行われてきましたが、戦後は次第に簡略化され、現在では町並みや室内の飾りつけはほとんど見ることができなくなりました。

(※1)「ハレ(晴)」とは、正式、おおやけ、非日常のこと。

         
      「湯浅祭礼御輿渡御の図」(部分)
      町家には幔幕が掛けられ、格子や窓が
      外され、祭りのための演出が行われた。
〜近世絵画にみる町並み〜

 江戸時代の湯浅の町並み景観を描いたものとして、嘉永4年(1851)ノ「紀伊国名所図会後編」と江戸時代後期の「熊中奇観」をあげることができます。
 「熊中奇観」は熊野街道の景観を海側から俯瞰的に描いた絵巻です。伊勢国の田丸城下から潮岬まで(第一巻)と本宮から和歌山で(第ニ巻)を描いたニ巻と那智山周辺を描いた1帖があります。第二巻に海側から描かれた湯浅の景観が収められています。絵画的な表現で必ずしも写実的なものではないですが、周辺の集落景観と比べると、「湯浅」の町並みの中には土蔵もあり、明らかに町場(市街)として描かれています。また「湯浅湊」には帆船が描かれ、港湾の機能も大きかったことがうかがえます。
 こうした近世絵画に描かれた湯浅の町並みは、紀州藩の中で和歌山城下と新宮城下に次いで大きな都会であった往時の姿を彷彿とさせてくれる資料として貴重といえます。




    
     久保里にある小路。寺前通、道町筋、
     鍛冶町筋、田中小路に囲まれた内部を
     「久保里」「久保町」「くぼり」と呼ぶよう
     です。地形が少しくぼんでいるため、ゆ
     るやかな坂や石垣がこの辺りに見られ
     る独特の景観をつくりだしています。
     
     「方寸峠眺望の図」方寸峠から見下ろした図で、
      帆船が往来する湯浅湾に面した大規模な町場
      として描かれています。(『紀伊国名所図会 後編』より)
      
     「熊中奇観」(部分)作者不明。江戸時代
     後期の作。町には土蔵(矢印)が描かれ、
     帆船が出入りしているのが分かります。
               (和歌山県立博物館蔵)
広報トップページへ