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| 近代の町並み 〜明治初期の地割り〜 明治初期の史料から、湯浅の歴史的な町並みの特徴を知ることができます。 ■字名 町の中心部は、「道町」「北町」「鍛冶町」「中町」「浜町」「新屋敷」「元本町」の各字から構成されています。すでに天保10年(1839)『紀伊続風土記』にその字名が見られ、近世以来の名称が引き継がれていることがわかります。ただし、「元本町」は「大小路」「川端片町」とあります。 ■字割り 各字の形状(字割り)をみると、「北町」「元本町」は東西両方向に長い形状の字で、その他の字は南北に長く、東から西へ「道町」「鍛冶町」「中町」「浜町」「新屋敷」の順に並びます。新屋敷の西は広い砂浜となり、湯浅湾へと続きます。 各字は、通りを挟んで向かい合う敷地がひとつの町を構成する両側町の形式をとります。南北に長い「道町」「鍛冶町」「中町」「浜町」「新屋敷」のいずれの字も、軸となる通りの西側(海側)の土地の面積が広いという特徴がみられます。 |
![]() 「和歌山県有田郡湯浅町大字湯浅全図」 明治30年作成 湯浅では明治期の町の地割りを示す史料として、この「和歌山県有田郡湯浅町大字湯浅全図」と明治初期のものと推測される地籍図が残されています。 |
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![]() 町割復元図 明治初期の町割りを復元したもの。両側町の形式。通りに面した細長い敷地は、湯浅の町並みを特徴づける重要な要素のひとつです。 |
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| また、明治初期の湯浅の地割りには、通り、小路、敷地などに規則性が認められ、計画的な開発が行なわれたといえます。 ■通り 東西方向に通る北町の通りから、各字の主要通りが南北方向にのび、その中央に蔵町の通り、南端に元本町の通り(現在の大小路)が東西方向に走る構成となっています。 ■小路 各字の主要通りに囲まれた街区内は、南北、東西方向の小路が数多く走っています。なかでも浜町、新屋敷は、東西方向の小路がほぼ等間隔に通り、湯浅湾へと向かう軸線が強く示されています。これは寛文元年(1661)の町割図(「在田郡湯浅浜丑ノ新屋敷絵図」)と同じで、寛文以来の町割りがそのまま残っていることが分かります。 ■敷地 敷地の大きさは、道町、北町、鍛冶町、中町で比較的大きく、特に大規模な敷地は中町を中心に分布しています。これは、大規模な施設を必要とする醤油醸造業と関係すると思われます。 |
![]() ![]() 湯浅の町並みを北から見た風景。左から、道町、鍛冶町、中町、浜町、新屋敷が並ぶ。 左半分の中央に見える大樹は深専寺のクスノキ。 右半分には、埋め立て以前の海岸と大仙堀が見られます。 |
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明治初期の地籍図には敷地の間口方向(表口方向)が記されています。 間口が向けられた通りが敷地の表通りと判断され、角地においては間口方向が2つの通りの関係を知る手がかりとなります。 ■通りと間口方向 各敷地の間口は、一般的に各字の軸となる通りに対して開かれています。 鍛冶町以西の町では、角地の間口方向においては、鍛冶町、浜町、新屋敷の通りは、北町に対して間口が開かれています。これは、北町の通りがこれらの通りより、主要な通りとみなされていたといえます。鍛冶町以西の町は、北町と中町の通りを軸としてつくられた町といえます。 道町から鍛冶町の間では、東西方向の通りに対して間口を開く敷地が多くみられます。これは、道町はかつての熊野街道であり、その成り立ちと性格の違いが、道町以西の町との空間構造の違いとなって現れたと考えられます。 |
![]() 明治初期の敷地間口方向。敷地における間口方向が、町の骨格となる主要な通りに対して開かれているのがよくわかります。(■は、東西方向の通りの間を開く敷地) |
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| 明治初期の土地利用形態をみると、その時点で町場化(都市化)されていたのは、道町より西に限られていたようです。 道町より西では田畑が15筆確認される以外は、寺社地、墓地を除く全てが宅地となっています。寺院は、本勝寺、真楽寺、福蔵寺、仙光寺、宝林寺、深専寺の6ヵ寺が確認され、位置、寺院名ともに現在と同じです。神社は、北戎神社、南戎神社、元戎、諏訪神社の4社が記されています。これらのうち諏訪神社は明治40年に顕国神社境内に合祀され、場所を移しています。 これまで、明治初期の史料から、湯浅市街地の特徴を見てきました。その結果、各字の通り・敷地などの形状に相違がみられ、町の成り立ちに反映された、大きく3つの異なる町並みがあることが分かりました。 それは、熊野街道沿いに発展した道町を軸とする町並み、味噌・醤油醸造業が盛んであった北町、鍛冶町、中町の町並み、そして湯浅湾を意識して町がつくられた浜町、新屋敷の町並みになります。 |
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