歴史
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 今から5000年ほど前から湯浅に人が住み始めました。 当時は、海が今よりずっと中まで入り込み、水(ゆ)が浅く広がっていたことから、 「ゆあさ」の名がついたとも、古名「湯笠(ゆかさ)」から転じたともいわれています。

   平安時代 湯浅の地名が歴史に登場
 平安時代になると、土地の有力豪族、湯浅氏の活躍とともに「湯浅」の地名 が歴史上の文献に登場します。
 湯浅氏は、藤原鎌足の子孫藤原秀郷の後裔と考えられ、 居住の地名から湯浅氏と名乗るようになったようです。
   熊野三山への信仰 熊野街道の重要な宿駅に
 仏教の隆盛とともに、熊野三山が人々の信仰を集めたため、湯浅は熊野街道の 重要な宿駅となりました。熊野参りへの人々の信仰熱は、上流階級から庶民まで広く 高まったそうで、京の都から盛んに人が往来し、湯浅の地で旅装をときました。
  熊野参りの途中でお参りしたところ「王子社」といいますが、吉川に 逆川王子社跡、別所に 久米崎王子社跡が残っています。
 また、この街道 は、江戸期には官吏の往来や、官用の荷物書状の輸送のための交通路にもなり、湯浅 は伝馬所としての役割も果たしました。
天神山古墳出土品


天神山古墳出土品
 弥生〜奈良時代はわが国に
おける国家統一が、大和や河
内地方など畿内中心に展開さ
れ、壮大な古墳が多く作られた。

   室町から江戸へ湯浅組
 熊野街道の宿駅として、また紀伊水道の港町として位置と地形に恵まれた湯浅は、 紀州藩の有田御代官所が置かれ、「湯浅組」として23ヶ村が治められ、組には大庄屋 一人と、各村に庄屋が置かれました。
 今日でも、税務署や有田振興局などが置か れる有田地方の行政中心地としての、湯浅の歴史はこの時に始まったと言えるでしょう。
湯浅の海岸

湯浅の海岸
 明治20年ごろ汽船の定期寄港が開始され、
以後40年間、旅客や貨物を運びました。
   江戸から明治へ 活気あふれる商工の街
 交通上重要な位置にあった湯浅は、次第に商業都市として発展を遂げます。その核 をなしたのは、なんといっても醤油。湯浅は、今や世界の調味料になった醤油が、商品と して誕生したふるさとです。
 湯浅醤油は、紀州藩の保護を受けて発展し、名声を高 めました。ほかに醤油誕生のきっかけとなった金山寺味噌や、紀州みかん、魚網などが重 要な産業でした。
 醤油の発展は、運搬のための海運業や、醸醤に伴う、様々な工業 製品の発展を促し、豪商も生み出しました。江戸や関東各地に漁場や店舗を持つ所受けも 多く、なかには、下総に進出して醸醤業を始めた者もいて、銚子の醤油産業のルーツにも なっています。
 湯浅は、幕末には城下町和歌山についで人口の多い商業としになっ ていました。
   村から町へ
 明治維新後湯浅村、別所村、青木村、山田村が合併して湯浅村に、田村、栖原村、 吉川村が合併して田栖川村になりました。
 さらに、湯浅村が町となり、湯浅町が誕 生したのは、1896年(明治29年)のことでした。
 この後、第2次大戦後の1 956年(昭和31年)に田栖川村と合併し、現湯浅町となり、観光産業の開発の町づく りが始まりました。
湯浅のひと
   湯浅宗重(ゆあさ むねしげ)
 平安時代から鎌倉時代初期にかけて湯浅を本拠地に活躍した武士です。宗重を中心 とした湯浅党は戦記に名高く、その勢力から、平時の時代には平清盛に、鎌倉幕 府になってからも頼朝の信頼が厚かったといいます。
 また、武勇の一方で、神仏を 崇信して、神社、寺院の修理や建立を行い、手厚く保護するという横顔も持っていました。 次に紹介する明恵上人は孫にあたります。
湯浅城跡
西の方より見る湯浅城跡
   明恵
 鎌倉前期の僧。16歳のとき出家して、京都、奈良に学びますが、名利だけを求める風 潮を嫌って、23歳で湯浅に戻り、山中で一人修養と研鑽につとめました。
 栖原白上の峯に入り、さらに東白上峯に草庵をたてて修養に励みましたが、そこでの修行 はたいへん厳しいもので、一切の俗念を払拭しようとして右耳を削ぎ落としています。
 後に後鳥羽院から土地を賜り、京都・高山寺を復興します。建礼門院はじめ位の高い人々 から庶民に至るまで、多くの人が人柄と教えに帰依したいといい、その中には仏師として名 高い運慶、快慶らもいました。
 また上人は、和歌にも長じ、月の歌が多かったので「月の歌人」という優美な異名をとり ました。
明恵上人坐像

明恵上人坐像 施無畏寺蔵
   栖原角兵衛(すはら かくべえ)
 栖原家の当主は、代々角兵衛と称しました。初代は房総の漁場を開拓し、さらに5代目 は蝦夷(北海道)の漁場を開き、6代目は樺太と北海道・宗谷間の定期航路を開くなど、歴代 が樺太、千島まで漁場をひらきました。
 このように、北方の発展に貢献したほか、函館付近の上山村の開墾や、ロシア侵入に備えた 防備にもつとめたということで、当時の栖原家の有力者ぶりがうかがわれます。
   須原屋茂兵衛(すはらや もへえ)
 4代目須原屋茂兵衛は、杉田玄白の『解体新書』を出版した”江戸の本屋”須原屋の本 店当主です。
栖原村の須原家は、代々江戸で薬問屋と出版業を営み、山の手の武士や教養人に人気があ りました。
 当時、『解体新書』は罪に問われる危険性のあるものだったにもかかわらず、日本の将来 のために出版を決断した功績は高く評価されています。
有田鉄道湯浅駅

有田鉄道湯浅駅
 港町・湯浅と、有田川流域の中部商業地・金屋との間に鉄道を敷設することは、湯浅港の発展の上に重要な地方問題となり、当時全町民の関心は大きく、郡内有志の協力を得て、1915年(大正4年)、有田鉄道が全線開通し、軽便鉄道の海岸駅が港のすぐ近くにありました。山田川河口の海岸駅と金屋口駅との間に6駅を設け、有田の動脈として機能を発揮しました。
   菊地海荘(きくち かいそう)
 栖原の生まれの菊地海荘は、家業を継いで江戸で砂糖・薬問屋を営むかたわら、詩に 親しみ、故郷に古碧吟社を創設しました。 ここには、有名な詩人が訪れ、全国にも名高い詩の集団となっていました。
 また、渡辺崋山、佐久間象山、大塩平八郎らとも親交を結び、国内、世界の情勢に通じて、 天保の飢餓では私財を投じて土木工事を起こし、難民、失業者を救いました。
   鎌田柳泓(かまた りゅうおう)
 江戸期の最も優れた哲学者の一人として、高い評判を受けている柳泓は、心学と医学 を、伯父であり、養父である一窓から学びました。
 柳泓はまた、中国、日本の古典文学に通じていたほか、医学、天体力学、生物学といった 分野にも精力的に取り組んで、心理学的、科学的説明を備えた独特の理学を大成しています。
   鎌田一窓(かまた いっそう)
 湯浅道町出身の一窓は、幼いころに京都に移り住み、医術を学んで本業としました。 そのかたわら、当時の人間観として清新な学問であった心学に傾倒して石田梅厳に学びました。 梅厳亡き後は旧宅を預かり、また各地に講舎を創立して、心学の普及に努め、湯浅にも有信舎 がありました。
 その人柄と所説が、人々に敬慕されたということです。

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