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湯浅の歴史

ページID:0003049 更新日:2022年1月11日更新 印刷ページ表示

湯浅の歴史

今から5,000年ほど前から湯浅に人が住み始めました。
当時は、海が今よりずっと中まで入り込み、水(ゆ)が浅く広がっていたことから、「ゆあさ」の名がついたとも、古名「温笠(ゆかさ)」から転じたともいわれています。

平安時代 湯浅の地名が歴史に登場

平安時代になると、土地の有力豪族、湯浅氏の活躍とともに「湯浅」の地名が歴史上の文献に登場します。湯浅氏は、藤原鎌足の子孫藤原秀郷の後裔と考えられ、居住の地名から湯浅氏と名乗るようになったようです。

熊野三山への信仰 熊野参詣の重要な宿所に

仏教の隆盛とともに、熊野三山が人々の信仰を集めたため、湯浅は熊野参詣の重要な宿所となりました。熊野参りへの人々の信仰熱は、上流階級から庶民まで広く高まったそうで、京の都から盛んに人が往来し、湯浅の地で旅装をときました。
熊野参りの途中でお参りしたところを「王子社」といいますが、吉川に逆川王子社、別所に久米崎王子社跡が残っています。また、江戸期には官吏の往来や、官用の荷物書状の輸送のための街道として整備され、湯浅は"伝馬所"としての役割も果たしました。

戦乱の世

湯浅氏一族が、歴史上で活躍したのは、平治の乱で、以後平氏の在地家人として重んじられました。
その後、時が移り源氏の世の中になっても、鎌倉幕府からの信頼厚く、強固な武士団湯浅党として長く名をはせ、京都警備の任などにもあたりました。
南北朝時代には優秀な水軍も抱え、吉野の朝廷(南朝)の進軍に呼応して、遠く九州に活躍しました。この水軍の造船・操船技術が後に海運業として花開くこととなりました。
湯浅党は、南北朝時代まで実に300年にわたって勢力を誇っていました。

室町から江戸へ 湯浅組

熊野街道の宿駅として、また紀伊水道の港町として位置と地形に恵まれた湯浅は、紀州藩の有田御代官所が置かれ、「湯浅組」として23ヶ村が治められ、組には大庄屋一人と、各村に庄屋が置かれました。今日でも、税務署や有田振興局などが置かれる有田地方の行政中心地としての、湯浅の歴史はこの時に始まったと言えるでしょう。

江戸から明治へ 活気あふれる商工のまち

交通上重要な位置にあった湯浅は、しだいに商業都市として発展を遂げます。その核をなしたのは、なんといっても醤油。湯浅は、今や世界の調味料になった醤油が、商品として誕生したふるさとです。紀州藩の保護を受けて発展し、名を高めました。ほかに、醤油誕生のきっかけとなった金山寺味噌、紀州みかん、魚網などが重要な産業でした。
醤油の発展は、運搬のための海運業や、醤油にともなう様々な工業製品の発展を促し、豪商も生み出しました。江戸や関東各地に漁場、店舗をもつ商家も多く、なかには下総に進出して醤油醸造業を始めたものもいて、銚子の醤油産業のルーツにもなっています。
湯浅は幕末には城下町和歌山についで人口の多い商業都市になっていました。

村から町へ

明治維新後、湯浅村・別所村・青木村・山田村が合併して「湯浅村」に、田村・栖原村・吉川村が合併して「田栖川村」になりました。
さらに湯浅村が町となり、湯浅町が誕生したのは1896年(明治29年)のことでした。
この後、第2次世界大戦後の1956年(昭和31年)に田栖川村と合併し現湯浅町となりました。