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史跡 湯浅党城館跡 湯浅城跡

ページID:0008114 更新日:2024年2月22日更新 印刷ページ表示

湯浅党城館跡の概要

 湯浅党城館跡は、平安時代末期から南北朝期の紀伊国において大きな勢力を誇った湯浅一族を中核とする武士団「湯浅党」の城館跡です。

 湯浅党の研究史は古く、既に戦前から中世武士団の典型事例として取り上げられ、今日まで多くの研究成果が蓄積されてきました。

 湯浅党の本拠である有田地方は、文献史料以外にも湯浅党を物語る遺跡や寺社、美術工芸品、石造物といった多様な文化遺産が数多く残されており、中世武士団の具体的なあり方を知ることができる全国的にも数少ない地域の一つとして、日本中世史の中でも重要な位置を占めています。

 湯浅党については豊富な文献史料が残り、これまで多くの調査研究が進められてきたましたが、その拠点である城館についてはほとんど調査が実施されておらず、その実態は不明でした。そこで、有田市・湯浅町・有田川町の3市町が連携協力を行い、城館遺跡や関連文化遺産の合同調査研究を実施した結果、発掘調査を実施した湯浅城跡と藤並館跡では、遺存状態の良好な遺構が確認され、遺跡の形成年代が湯浅党の活動時期である鎌倉時代に遡ることが明らかになりました。

 これを受け、豊富な中世文書を伝え、中世武士団の典型事例として研究が進められてきた湯浅党を象徴する城館群であり、周辺に残る湯浅党関連の寺院や石造物などとともに、中世前期の社会状況を示しており、我が国の中世前期の武士団の在り方を知る上で重要であるとして、令和3年3月26日に国の史跡に登録されました。

※現在、湯浅城跡は公開していません。

湯浅党の歴史

 湯浅党とは、湯浅氏を中心とした武士団の総称で、主な構成員は、血縁関係のある同族の「一門」と婚姻関係や養子関係による擬制的な血縁関係によって結びついた「他門」が提携して形成していました。

 湯浅党の惣領である湯浅氏が勢力を拡大するのは平安時代後期のことで、その始祖とされる湯浅宗重は、熊野街道に沿って湯浅の町場を開発し、沿岸部に屋敷を構えることで海上交通を掌握するなど勢力基盤を固めていきました。1159年の平治の乱では、湯浅宗重が熊野詣の途次にあった平清盛を助けて平家の有力な家人となりました。平家滅亡後は鎌倉幕府の御家人となり、紀伊半島全体へ影響を及ぼす存在となりました。南北朝期になると、湯浅党は南朝勢力の中核として抗戦していたことが太平記に見えますが、実際は北朝方と南朝方に分裂していたことが史料や石造物からうかがえます。1379年には紀伊国守護の山名義理によって藤並・湯浅・石垣といった湯浅党の拠点が攻略されて湯浅党は終焉を迎えましたが、湯浅党の一部は室町時代にも存続して紀伊国守護の畠山氏の家臣として活動していました。

湯浅城跡

▲湯浅城跡

藤並館跡

▲藤並館跡