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柑橘類
文左衛門が20代のある年、紀州は驚くほどミカンが大豊作で、江戸へミカンを運ぼうとしましたが、その年の江戸への航路は嵐に阻まれていました。江戸へ運べなくなったミカンは、上方商人に買い叩かれ価格は大暴落しました。
当時、江戸では、毎年鍛冶屋の神様を祝う「ふいご祭り」で、鍛冶屋の屋根からミカンをまいて、人々に振る舞う風習があったのですが、紀州からミカンが来ないことからミカンの価格は高騰していました。
これに目をつけたのが文左衛門でした。彼は大金を借りてミカンを買い集め、大船を直しました。そして、文左衛門は荒くれの船乗りたちを説得し、死をも覚悟して白装束に身を包み荒ぶる海に船出します。大波を越え風雨に耐えた文左衛門たちは、ようやく江戸にたどり着きます。
江戸では、不足していたミカンが高く売れ、嵐の中を命がけでよく江戸に運んできてくれたと庶民は賞賛しました。そのときの様子は「沖の暗いのに白帆が見える、あれは紀ノ国ミカン船。」とかっぽれでも唄われ残されました。
文左衛門は、江戸へはミカンを、また上方へは塩鮭を運び、その元手で江戸に材木問屋を開き、富と名声を手に入れる事ができたと言われています。
文左衛門は別所の生まれといわれており、別所の勝楽寺には「紀文碑」があり、毎年4月24日の文左衛門の命日には法要を営んでいます。国道42号を渡った所には「紀文茶屋」があり、文左衛門の位牌や「紀伊国屋文左衛門生誕之地」と刻まれた標柱もあります。