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万治年間(1658~60)に、栖原から江戸に出た初代須原屋茂兵衛が、のちに江戸で最大の書物問屋となる千鐘房須原屋を開きました。
武鑑といわれる大名や幕府役人の名前や家紋、石高などを年鑑形式で発行するものを中心として繁昌し、多くの暖簾分けされた支店をもって、文化期(1804~18)には12名もの須原屋一統があったともいわれています。
そのうちのひとつ、須原屋市兵衛店は、杉田玄白の「解体新書」を出版しています。
当時「解体新書」は罪に問われる危険性のあるものだったにもかかわらず、日本の将来のために出版を決断した功績は高く評価されています。