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建久6年(1195年)、明恵が23歳の時に、それまでいた京都・神護寺から、母方の故郷である紀州有田の地に入り、最初に庵を構えたのが、西白上遺跡です。
西白上は、施無畏寺奥の院から800メートルほど上がった白上山の山中の岩場にあり、眼下には栖原の集落や湯浅湾、そして湯浅湾に浮かぶ苅藻島や鷹島といった島々や、遠くには四国の山並みがうっすらと見えます。
苅藻島は、明恵が何度も修行のために渡った島です。明恵の西方への憧れを物語るエピソードです。
一説には、栖原の集落の喧騒を避け、ここから直線距離で200メートルほど東の東白上に拠点を移したといわれています。
西白上から移った明恵は、ここで一心に修行に励みました。
真に仏に身を捧げる身となるべく、自身が本尊としていた仏眼仏母像の前で自らの右耳を切り落とし、痛みの中で華厳経を読み続けていると文殊菩薩があらわれたというエピソードは、この東白上遺跡での出来事であるとされています。